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CRJAの思い出

  1. 2005年〜2008年の4年間CRJA会長を勤めさせていただきました西田です。2003年にタイ国東京海上のシラチャ支店長として赴任以来、親睦部会委員としてチャリテイーゴルフ大会や日本祭りの企画などを行っていました。
     
  2. 2005年初頭に、CRJAの運営委員が急に若返る中で私が最年長者(54歳)となり、前任の戸田会長、辻副会長から「次期会長はあなたしかいない」と言われお引き受けしました。
    当時の会員企業数は、170社程(2008年に会長職を辞した時点で190社程に。)であったと記憶しています。
     
  3. 会長となって戸惑ったのは、日本人補習校の校長を兼務することでした。会社の上司でBKK本社の玉垣社長(当時泰日協会学校理事、現泰日協会学校事務長)から、周りの目があるので校長先生として相応しくない行動(夜遊びなど)は慎むよう注意されたのを覚えています。
    補習校の入学式、卒業式、クリスマス会などの行事には校長としての挨拶を頼まれました。保険の話ならお手の物ですが、小学校低学年から中学生までの幅のある年齢層の生徒達にどの様な話をすればよいかいつも悩みました。
    日本の桜の花、タイのラチャプルックの花(いずれも国花)の話をいつもしていましたが、生徒達にはあまり受けがよくなかった様でした。また校長になりたての頃、意気込んでついご挨拶が長くなったことがあり、その後毎回のようにお母様方から「校長先生、ご挨拶は手短にお願いします」と言われてしまいました。
     
  4. 当時、チョンブリ・ラヨーン地区への日系企業の進出は増える一方で(約560社、居住法人数約4,000名)、また日本から工場へ派遣される方々の年齢層が若くなっていましたので補習校の生徒数は年々増え、2005年当時には100名に届くようになりました。‘系企業の進出が更に増える見込みなること単身赴任比率が依然として高いが子供の教育上大事な時期に家族が一緒に暮らすことが望ましいこと子供と保護者が赴任時にインター校に慣れるのに苦労し、帰任時に日本の学校に慣れるのにまた苦労する事態に鑑みて2006年2月のCRJA総会にて日本人学校設立検討委員会の設置を決議しました。同委員会は、CRJA会長が委員長となりCRJA運営委員が主導して企業代表、父母代表、ボランテイア、更には日本国大使館、JCCの補習校支援委員会代表にも参加いただき検討を行いました。同委員会の総意に基づき2006年10月のCRJA中間総会にて同委員会を日本人学校設立準備委員会へ発展的に改組し、日本人学校の設立について具体的な活動を開始しました。
     
  5. 学校設立準備委員会は、2009年4月開校を目標として設立形態、許認可申請、土地建物計画、資金計画を具体的に策定すべくCRJA運営委員がリードして活動を開始しましたが、どこから手をつけてよいのやら当初は雲をつかむような思いでした。そのような困難な状況について、バンコク校を経営している泰日協会学校理事会の白崎理事長(当時)の「バンコクとシラチャ・パタヤ地区の日本の子供達に同等の教育を実施してあげたい」と言う暖かいお言葉に理事の皆様が賛同され、学校理事会(バンコク)が主体となってシラチャ地区に新たな日本人学校設立を準備することになり、具体的な設立準備が始まりました。当時、学校理事会からは、新校の設立について受益者負担の観点から、現地の日本人社会に設立に向け熱意を持って汗をかいてもらいたいとの要請を受け(具体的には、寄付金の募集や学校用地の確保・校舎の建設等で現地としての役割を果たすこと)、CRJAは学校設立準備委員会を通じて全力を傾注して役割を果たすことを約束しました。
     
  6. このようにして始まったシラチャ日本人学校設立プロジェクトは、その後3年半をかけて2009年4月に予定通り開校となりましたが、とにかく不思議なプロジェクトでした。と言うのも、「困った」と思うとご支援いただける方が出てきて手を差し伸べ上手く行くことが何度もありました。従いまして、この学校は元々設立されるべくして設立される学校なのだと確信のような不思議な思いを私は持っていたことを覚えています。
    即ち、学校設立準備委員会を設立したもののCRJAだけではどうにもならない状況下で前述の泰日協会学校理事会の白崎理事長の暖かいお言葉がはじめの大きなご支援でした。そのお言葉が無ければシラチャ校は存在していなかったかも知れません。
    シラチャ校の初代校長を勤められた松田校長先生は2006年にCRJAのお願いで補習校(2009年3月末で閉校)校長となっていただいて以降プロジェクトの推進に無くてはならない方(支援者)となり、その後文部科学省によってシラチャ校校長に任命されました(文科省として前例の無い特別な計らいでした)。
    学校用地に困っていた時に用地を15ライを無償で5ライを5百万バーツで譲渡いただいたサハ・パタナグループの総師であるブンヤシット会長もタイミングよく本当に大きな支援をいただいた方です。
    タイ国文部省の認可を申請する中でシラチャ校についてもバンコク校同様、泰日協会が設置者とならない限り認可を取得することが難しいことが判明しましたが、泰日協会は学校理事会がバンコク校の経営を通じて培った経営諸資源を活用してバンコク校とシラチャ校を一体経営することを前提にシラチャ校の設置者となることを了承しました。当時(2007年)は、日・泰修好120周年であり、その記念行事のひとつとして本プロジェクトが位置づけられ、日本大使館のサポートを得つつタイ国文部省の認可取得に際してご手腕を示された学校理事会の福島理事長(当時)も無くてはならない支援者でした。その後、設立最終段階で大変お世話になった羽島理事長(当時)も適切なリードをしていただける方(支援者)でした。
     
  7. 上記のような支援者が次から次へと出てこられた背景には、CRJAの運営委員を主とした学校設立準備委員会の皆さんのプロジェクトの推進に対する熱意があったからとも思います。泰日協会学校の今井事務長は実務的なプロジェクトリーダーとして適任な方でしたし、堀越委員(その後シラチャ校PTAでご活躍)は主にゼネコンのタイ竹中インターナショナル社と校舎建設についてよい学校となるよう細部にわたって打ち合わせを行いました。
    竹中さんには、心をこめて素晴らしい校舎を建ててもらいました。
    また、お母様方にも委員となっていただき設立準備状況の情宣を日本人社会に広く行っていただくなど本当にご活躍されました。ご帰国までにシラチャ校の開校が間に合わず、ご自身のお子様はシラチャ校には通えないが「将来この地に来られるご家族の為に」と頑張っていただいたお母様方がいらしたことは忘れてはならないと思います。
    また、日系企業の皆様方には、継続的にプロジェクトをサポートいただき、寄付金の募集に際しては快くお応えいただきましたことも忘れてはならないと思います。
     
  8. 「私のような素人が校長をしていてはいけない」と言う強い思いから海外での教育経験が豊富な松田校長先生に補習校校長職をお譲りし、更に「100名もの生徒がいるので日本人学校が設立できるのでは」との思いを持ったことから始まったプロジェクトでした。CRJA運営委員会で私から「日本人学校の設立を検討しましょう」と提案した際に当初賛同いただいたのは、教育部会の白井さん(補習校教頭)だけで、あとの皆さんは「とてつもないことを言う会長だ」との反応でしたが、私と白井さんが「どうしても」と譲らなかった為、「トライするだけはしてみましょう」と最後には皆さんに同意していただきました。
     
  9. シラチャ日本人学校の生徒数はその後大きく増えて現在は350名に達しており、増設も行われたと聞き及んでいます。学校の姿がほぼ見えてきた2008年9月にリーマンショックが発生し世界同時不況となったことを考えれば、補習校の生徒数が100名に達した2005年のあの時にCRJAとして決断してプロジェクトを始めておいてよかった、「あのタイミングしか無かった」と今でも思っています。私が会長を勤めさせていただいた4年間のほとんどは、学校プロジェクトの期間でしたが、むろんCRJAとしてそれ以外の活動も従来に引き続いて行っていました。安全部会、教育部会、情報部界、親睦部会、労務部会、個人部会の6つの部会のそれぞれの運営委員の皆さんは、ほとんどの方が工場勤務でお忙しい中時間をやりくりして頑張っておられました。日本へのご帰国に伴い運営委員の交代はありましたが、いずれの皆さんも素晴らしい方々で、CRJAの活動を通じて皆さんとご一緒できたことは忘れることができません。
     
  10. 私は、2010年にシラチャからチェンマイに転任し引き続き保険会社で勤務しつつチェンマイ日本人会の事務局をボランテイアで勤めています。
    シラチャの発展振りはよく耳にしており、シラチャ日本祭りが毎年大々的に行われていることを聞くにつけ怒和会長のご奮闘振りが目に浮かぶようです。
    CRJAが今後ともシラチャ・パタヤの日本人の皆様のお役に立つ中で、日本人社会が益々ご発展されますよう、心よりお祈りいたしております。

2014年4月20日 西田純敏

 

     

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